らくがきネームを描き直し。& 夢を楽しむ宣言。
こんにちは、間々です。
近況
らくがきから発生したネームを、いま作品にすべく描き直しています。
改めて自分のネームを、貴重なアドバイスとともに見返して見ると、「おもいこみ」が作品を作り上げて行く上で、かなり邪魔をしていることがわかります。
キャラはこうするだろう、こうなるはずだーーといった、たぐいですね。
思うに、書き上げた後一人で見直しても、結局「読み解く」感覚は大して変わらないので、人に思い切って見せた方がいいです。
少なくとも、私はそのほうがいい人のようです^^;
どうにも、一歩引いて見ることができないんですね。できることなら、一歩どころか、二歩でも三歩でも、引いた方がいいのでしょうが。
木を見て森を見ず、とツイッター友達が言っていましたが、この格言通り、「もっと広範囲に」「もっと想像力を持って」「もっと観察する力をつける」必要があるように思います。
今日は、そんなお話を書いてみました^^;
話は変わりますが
夢を追いかけ続ける人々は、「いつでも夢のことを考えて」「いつでも夢のために行動して」「夢のためになんでも捨てて行く」という話を夫がよくするわけです。
彼の周りにはそういう「熱い人々」がいたようでして。
私の兄もその類でして、ガキ大将だったのが、なぜか気づいたら会社なんか経営したりしてます。
そのバイタリティ、夢見るエネルギーが太陽みたいに煌々と燃えるタイプの夢追い人に、わたしはすごく憧れと、劣等感を持っています。
いままで「親のいい子ちゃん」でいようとして来た結果、
「うちの子は恋愛には興味がない」>「親がそういうんだから、それでいいや」
「うちのこは勉強はできないが、漫画はうまい」>「そうだ、たしかに漫画好きだ! 勉強は兄に任せとこう」
「お金がないけど、大学行きたい?」>「お金がないのを無理させたらまずい。塾も行かない。大学も行かないよ! 就職するね!」
そのような流れで、結婚も「親がいいっていうなら、いいんだろう」と、快諾。
・・・サイッテーだと思いませんか、自分。
この最低さに気づいたのは、割とつい最近です。
夫のことは大好きで、今でも「この人でよかったなあ」と思っていますし、幸せなんですが、「自分の力で、自分の意欲で、自分の考えで」という生き方を、全くしてこなかったわけです。
今思えば、自分のために決断をしたり、誰かをその決断に巻き込んだりという責任を伴うことから、すべて逃れて来たんだと思います。
で、しがらみができてる今、「こうしたい!」と思うことがようやく出て来ても、「こうしたい! っていう割に、なんか夢を追う人たちと、あまりに違くない?」と言われるわけです。
全力で何かに取り組む様子が、全く見られないよ、と。
全力で追いかけないと、夢じゃないのかなあ。
全力で取り組まないと、夢って叶わないの?
そりゃそうだろう! って声も聞こえて来そうですが、いま、わたしは「夢というものは、楽しんでいるうちに叶うものだ」と思っています。
苦労したり、何かを捨てたり、来る日も来る日も努力したり、というのではなく、「自分がもっとも、楽しんで、楽しんで、楽しみ尽くして」叶えて行くものではないのでしょうか、と。
たぶん、兄も、夫の周りの人々も、真実そうなのだと思います。
でも、周囲は「血の滲むような努力をしないと」と言います。
特に両親は顕著です。「漫画家になるなんて、才能のある一握りの人だけ。おまえは投稿して、一度でも通ったか? 本を作って、売れたか?」と言います。
はっきり言って、描き始めたばかりの実力で、投稿を1回2回(3回だったかも)したくらいで、通っちゃうのは本当に天才でしょう。でも、普通はそうじゃない。
それから、一次創作同人の本は、そう簡単には売れないものです。無名で、島中で、十分な宣伝も、そして実力もない私です。売れるわけないじゃん!(言ってしまったw)
でも、本を作る楽しみというのはまた別なのです。有名になるために売りに行くわけでもなければ、お金を稼ぐために頒布するわけじゃないんです。
でも、世間はそう言わない。
最近、もどかしかったのです。ずっとずっと、もどかしかった。
今は堂々と言えます。
わたしは、漫画が好きです。
わたしは、夢を叶えるための努力より、漫画を楽しく描く努力をしていたい。それがいちばんの、近道だとも思っています。
周りがなんと言おうと、「そんなんで夢が叶うはずがない」と言われても、わたしはただ、楽しみます。
苦労をしないわけじゃありません。苦労も楽しみたいのです。
全力で苦しむのではなく、全力で楽しみたい。
はために、それが「努力をしているように見えない」ものであっても。
今回は自分語りしてしまいましたが、青臭い(30過ぎて?)お話だと思って許してください。
では、また。